~あいにいく~第5回【 1 / 3 】

奈良県 金工作家 小泉匡【1】

    奈良県 金工作家
    小泉匡【1】




 それは、はっきりと、ひと目惚れだった。

 なぜそこに行き着いたのか、実は今もよくわからないのだ。とにかく私はそのサイトを見ていた。日本中の、あらゆるモノ作りが集い、作品を販売しているサイト。そこに、この指輪はあった。

 人と人が、手をつないでいる。よく見ると、猫とかもいる。人の手と足が、ハート型を成していたりする。

 自分が今やりたいとぼんやり思っていることを、もしカタチにしたら、こうなる気がした。これは、私の、お守りだと思った。自分のベクトルを見失いかけたら、この指輪は、きっとそれを思い出させてくれる。そう思った。

 ブツは、郵便で届いた。宛名も氏名も、ワープロではなく手書きだった。決して流麗とはいえないその文字を見て、心が決まった。

 私は、この人にあいにいく。

 はじめましては、京都駅で行うことになった。とんでもなく暑い日だった。目の前に「551」の肉まんコーナーがあったのでそれを買う。関東以東の人間の、それは条件反射なのだと思う。そして着ている服の色と、肉まんを持っていることをメールで告げると、彼はすぐに声をかけてくれた。

 でかい。背が。そしてやわらかい。彼を包む何かが。

 とりあえず、涼を求めてお茶をすることになる。エスカレーターで階上のカフェへあがり、飲み物を買って着席をして、でもその時点ではお互い、思ってもみなかった。

 その日のおしゃべりが、そこから4時間にも及ぶだなんて。

 なんとなく回したレコーダーによれば、まず私たちは「言葉」について語り合っている。彼はいつも、作品に何らかの言葉を添える。ある時は詩のようなもの、ある時は主人公の心の代弁。説明でも規定でもない均衡を、彼の言葉は探ろうとしている。

「同じ作品に添える言葉でも、展示のたびに更新するんですよ。今の僕には、この作品はこう見える、という感じ。時間が経つと、全然違って見えたりするんですよね。ブログの文面も、結構ころころ変えたりしてます」

 展示、という言葉を聞いて理解する。そうか、彼のしていることは「アート」なのだ。

「でも僕、アートって言葉が大っ嫌いで(笑)。いや、違うな、アートが大好きな自分と、大嫌いな自分がいますね。アート特有の「人にわかってもらえんくてもいいや」っていう感じが嫌い。せっかくなんだから、作品から何かを受け取ってもらいたいじゃないですか。こっちの思ってることを、押し付けることなく伝える方法を、いつも探してる感じですね」

 小泉匡がしようとしているのは、自己表現というよりコミュニケーションだ。

「展示会場では、気恥ずかしいからなんとなく気配を消しているんですけど(笑)、でもお客さんから声をかけていただくことが多いんですよ。ここが気に入ったとか、共感するとか。「ちゃんと、悲しめる作品ですね」って言われたことがあるんですけど、それはうれしかったですね。哀しさをごまかさないで、ちゃんと悲しめる作品だから好きだ、って。それって、めっちゃ深く見てくれてるから、出てくる言葉だと思うんですよ」

 なんとなく、彼の作品には、どこか寂しさがまとう。このちびっちゃい人たちが、寂しんぼのツボを直撃するのだと思う。体育座りで何かを思う、ちびっちゃい人。その人に傘をさしかける、ちびっちゃい人。集団で何らかのコトにあたるちびっちゃい人、ひとり物思うちびっちゃい人。彼らの誰かがかつての自分であり、今の自分だ。決して他人ではないそれらのちびっちゃい人たちを指先で撫でながら、観る人の孤独は、ほんの少しだけゆるむのかもしれない。

「すごい精巧な技術を使っているのに、どこか笑えるものを作りたいんですよ。怒ってる人も泣いてる人も、笑ったら負けじゃないですか(笑)。めーっちゃ時間をかけて、全力を注いで、そんなん作ったんかい!みたいなのがいい」

 こよなく愛するのは「ピタゴラスイッチ」の「ピタゴラ装置」である点において、まず、私たちは一致した。

「大事なのは、そこだけかもしれないです。観て、笑えるか、笑えないか」

 そんなインタビューテープを聞きながら今、私はこっそりほくそ笑む。多少、小ぎれいなモットーを聞かせてもらったくらいじゃ、「あいにいく」の旅は終わらないのだ。

(作品写真:小泉匡 ※4・5枚目をのぞく)
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